ちょっと意外かも知れませんが、京都で最大の産業は観光ではなく、製造業(工業)です。実は京都は、日本でも指折りの工業都市なのです。煙突が林立する重化学コンビナートはありませんが、西陣織、友禅染、京焼に代表されるような伝統的な工業、そして現代的なハイテク工業が京都の屋台骨を支えています。
「ものづくりの都市」としての京都の特色は、古く平安時代にまでさかのぼります。天皇や貴族の生活で使われるさまざまな製品が、宮廷直属の工房において創り出されました。鎌倉時代や室町時代にはいると、さまざまな専門的な職人が京都につどい、他では見られない高い水準の製品を生産しました。江戸時代にあっても、消費都市江戸、商業都市大坂に対して、京都は全国最大の工業都市であり続けました。京都の持つ高い文化が、ここで生み出される製品をしっかり支える役目を果たしていたのです。
伝統的な京都の工業の代表は、なんと言っても西陣織でしょう。西陣の町に立ち、そこで耳を澄ませてみましょう。バッタンバッタンと、どこからともなく織機の音が聞こえてくるはずです。日常生活が営まれている町家の中で、あのつややかな西陣織が今も生産されているのです。伝統的な京都の工業の特色は、一軒一軒の家がそのまま小さな工場になっていることなのです。
京都の産業は、もちろんそれぞれが永い伝統につちかわれてきました。しかし、京都の人々が単に伝統を守ることだけにとらわれ、新しい時代の流れに目を向けていなかったと考えるならば、それは大きなまちがいです。
近代に入って、日本人は欧米の進んだ文化に驚きました。何とか欧米に追いつきたい、それが明治の日本人の悲願になったのです。早くも明治の始めには、西陣から若い織工たちが留学生としてヨーロッパに旅立っていきました。フランスやオーストリアで学んだ彼らは、そこからジャカード織機と呼ばれる新しい機械を持ち帰りました。それまでの西陣においては、織物の模様を創り出すためには人間の複雑な操作が必要でした。それが、ジャカード織機ではパンチカードというものを使って、自動的に模様をつくり出すことができるようになったのです。これは、まさに飛躍的な変化を西陣織に与えたのでした。友禅染にあっても、明治の職人たちはいち早く化学染料を導入し、華やかで美しい精細な製品を多量に作り出すことに成功したのです。
同じ明治初期、鴨川の西岸に「舎密局(せいみきょく)」と呼ばれる施設が造られました。「舎密」とは「ケミストリー」つまり化学のことであり、これは理化学の専門的な研究所だったのです。ここでは、陶磁器生産の技術改良、染料や薬品の開発、さらにはラムネ、石鹸、ビールの製造までがおこなわれていました。こうした休むことのない努力が、近代の京都の産業を支えていたのでした。
現代の京都のもうひとつの顔は、ハイテク産業とベンチャー企業の都という側面です。京セラ、任天堂、オムロン、ローム、村田製作所、堀場製作所、日本電産など、誰でも知っているようなハイテク企業が京都には集まっています。もともと京都は、京都大学を始めとする多数の大学が集まっている学術都市であり、新しい技術を育て上げるためには最適の環境にあります。そして、そうした中で、独自の技術を掲げたベンチャー企業が次々と産み出されているのです。
京都のハイテク産業の特色は、それぞれの企業が、他では真似のできない独自の分野を持っていることです。たとえば、コンピューター・ゲームの世界では誰もが知っている任天堂も、実は京都の企業なのです。
これからの日本の産業は、かつての重厚長大型だけでは成り立っていきません。アジアの諸国などが、猛烈な勢いで日本を追い上げつつあることは、皆さんもよくご存じのことでしょう。そうした中で日本が生き残る道、それは、他の国が追いつけない高い技術力に支えられた高品質の製品を創りだしていくことでしょう。京都の産業が実践してきた高い価値をもった製品の開発と生産。これこそが、今後の日本全体の産業の方向性を指し示しているのです。