西暦794 年(延暦13)10 月22 日、桓武天皇は10年間住んだ長岡京(現在の京都府向日市・長岡京市ほか)を離れ、その北東の盆地の中央に建設中の新しい都に入りました。続く28 日には正式に遷都が宣言され、さらに11 月8 日にはこの新都の名前が「平安京」と定められました。それまでの都はせいぜい10 年から数十年という短さだったのですが、平安京とその後身である京都は、その後も千年以上という永い間、日本の首都であり続けたのです。これほどの長期間、ひとつの文明の中心として地位を保ち続けた都市は世界でも珍しいものです。まさに、京都こそは日本の「永遠の都」だといわねばなりません。
平安時代は、その名の通り、世界の歴史の上でもまれに見る平和な時代でした。この安定を背景として、平安京は光り輝く王朝文化の舞台となったのです。奈良時代の宮廷文化は中国のものをそのまま取り入れた感じを受けます。平安時代に入ってからの文化は次第に日本独自のスタイルを強め、九世紀末の遣唐使の廃止にともなって国風文化の花が開くことになります。紫式部の『源氏物語』、清少納言の『枕草子』をはじめ、数え切れないほどの文学作品がこの都から生まれました。京都郊外の宇治の平等院鳳凰堂には、まさにこの王朝文化の結晶が集められています。
平安時代後期の院政の時代になると、それまでの文化の中心だった貴族に加えて、新しく武士階級が大きな力を持っていくことになります。平清盛は武士階級出身者としては最初に政権を握りました。この時代の特色は、平安京の西半分(右京)が衰え、東半分(左京)がどんどん発展することです。そして、平安京左京を取り巻くようにして、「衛星都市」とでも呼べるような新しい市街地が拡大します。白河法皇たちによってたくさんの寺院が建立された「白河」、巨大な離宮が造られた「鳥羽」、平家の重要な根拠地であった「六波羅」などがそれでした。こうして、古代の都としての平安京は新しい中世都市としての京都へと変わっていくのです。
「源平の合戦」と通称されている「治承・寿永の内乱」をくぐり抜け、本格的な武家政権の時代へと突入します。東国に鎌倉幕府が誕生しても、京都の朝廷はまだまだ実力を持ち続けていましたし、また京都は日本最大の巨大都市でした。鎌倉時代に入っても、京都の重要性が失われることはありませんでした。JR 京都駅の周辺の遺跡の発掘調査では、金属工業の職人の工房跡、さまざまな種類の商人の店舗跡、豊かな金融業者が残したと思われる大量の銭貨などが見つかっています。まさにこれは、工業のコンビナートであり、商業や金融の中心地でありました。京都は日本全国の経済的中心としての地位をますます高めていったのです。
鎌倉幕府が滅びると、後醍醐天皇による短い「建武の新政」の時期を経て、足利尊氏が新しい武家政権を開きます。後に「室町幕府」と呼ばれるようになるこの政権は、まさに「京都幕府」でした。京都は、再び日本の唯一の政治的中心としての地位を取り戻したのです。3代将軍足利義満を中心とする北山文化、8代将軍義政が主導した東山文化など、純日本風の文化が京都において花開いたのです。義満の邸宅である北山殿、そして義政の別荘だった東山殿はそれぞれ、後に寺院に改められました。これが、「金閣寺」「銀閣寺」の通称で知られる鹿苑寺と慈照寺です。
15世紀中ごろにおきた「応仁・文明の乱」は、京都の市街地を戦場として闘われた11年間の内戦で、これによって京都は大きな打撃を受けました。しかし、乱が収まると京都は見事な復興を遂げてゆきます。その主役となったのは、中世を通じて次第に実力を蓄えてきた「町衆(ちょうしゅう)」と呼ばれる市民階層でした。彼らは自分たちの盛り上がる力を誇示するためのパレードをおこないました。現在でも京都最大の祭として続けられている「祇園祭」の山鉾巡行がこれでした。
室町幕府の勢いが弱まるとともに、日本は永い戦国の乱世へと入っていきます。政治的には戦国大名たちが各地で勢力を誇ったこの時代でしたが、それでも京都の文化は彼らの憧れの的でした。甲斐を本拠とした東国の雄であった武田信玄が、その妻だけはわざわざ京都の貴族の家から迎え入れていることなどは、このことを最もよく現しています。天下統一を狙った織田信長がまず何よりも京都を目指したのは、京都を支配することが天下を支配することにつながっていたからです。
本能寺の変によって信長は思いがけない死を遂げましたが、その天下統一の事業は豊臣秀吉へと受け継がれました。秀吉は武家としては初めての関白に就任し、京都の天皇の権威を背景として天下統一へと突き進んだのです。秀吉は大坂(現在の大阪)に巨大な城を築くとともに、京都を自らの政権の首都として大々的に改造していきます。京都の中央には関白の城としての「聚楽第」が築かれました。また、秀吉は京都の南の郊外に伏見城を営み、そこを晩年の根拠地としていきます。秀吉のこの事業によって京都は面目をまったく一新し、近世から近代に続く都市構造を造り上げていくのです。
徳川家康による江戸幕府の樹立により、京都は政治の中心としての地位を失いました。しかし、それでもなお、京都は全国の文化の中心地であり、工業の中心地であり続けました。特に、京都の工業からは、西陣織のような高級な産物が続々と生み出され、全国に出荷されていきました。京都は、政治の都である江戸、商業の都である大坂と並んで「三都」と呼ばれ、繁栄を続けたのです。この当時、江戸は100万、大坂は50万、京都は40万の人口を数える大都市に成長したといわれています。それに次ぐ都市というのは10数万人が住んだ名古屋と金沢くらいで、大きな藩の城下町であっても人口数万という規模でしたから、この「三都」の巨大さは全国の都市を圧倒していたのです。
300年の永い間、おだやかに治まった近世の日本でしたが、欧米列強による圧力によって江戸幕府の体制は崩れていきます。開国か、それとも攘夷(外国人を排斥する思想)かをめぐって、国論は完全に二分されてしまうのです。その中で、自立の度合いを高めていった長州や薩摩といった外様の大藩も、また屋台骨がぐらつき始めた幕府自体も、京都の天皇が持つ伝統的な権威を担ぐことによって自らの勢力の維持をはかるようになります。これにより、京都は再び政治都市の座に復活するのです。幕末の数年間には将軍も京都に滞在することが多くなり、徳川政権は事実上「京都幕府」の様相すら呈していきます。そして、幕府と対立する立場に立つ諸藩も京都を舞台としてさまざまな政治工作を繰り広げることになります。土佐の坂本龍馬や長州の桂小五郎(後の木戸孝允)、薩摩の西郷隆盛といった志士たちや、あくまで幕府を守ろうとする新選組が活躍したのがこの頃です。
やがて江戸幕府は滅び、天皇を中心とする維新政府が誕生します。京都はこれで再び「首都」に返り咲くかに見えました。しかし、明治天皇は江戸を「東京」と改めてそこに遷(うつ)ってしまいます。事実上の「東京遷都」がおこなわれたのです。京都はこれによって大きな打撃を受け、30数万を数えた人口も20数万へと激減したといいます。
しかし、京都はこの危機を見事にはねのけました。2代目知事の槇村正直(まきむらまさなお)、3代目知事の北垣国道(きたがきくにみち)といった強烈な指導者のもと、日本最初の小学校の設置、京都博覧会の開催、琵琶湖疏水建設、それにともなう水力発電の実施と市街電車の運行、赤煉瓦の近代建築の建設など、京都は全国にさきがけた新しい試みを次々に実行していったのです。これにより、京都は見事な近代都市として生まれ変わり、日本を代表する都市のひとつとして新たな輝きを放つことになりました。
太平洋戦争(第二次世界大戦)の時には、京都は空襲にほとんど合わず、結果的に貴重な文化財の多くは無傷のままで終戦を迎えました。現在の京都は人口約147万人。日本第8位(平成27年国勢調査人口)の大都市であり、日本の伝統文化を象徴する都市となっています。